RoseEnNoir午前零時

ギタリストRose En Noirの日常身辺雑記

保田與重郎『述史新論』

畏友、A君から保田與重郎文庫32

『述史新論』の贈呈を受けました。

先日記したように、この文庫は小学生が使う漢字ドリルなんかを発刊している

新学社のものだけれどもこちらの内容は

生真面目な文芸批評、果ては民族論なのであり

まあ日本語、日本文化を扱うという意味で漢字ドリルと通底しているのに妙に納得するね。

しかし、そんな軽口も許さないほどに本書の内容は重厚で、

稚拙な反論を寄せ付けないような独特の存在感を放っており

僕も旧字体の漢字に苦戦しながら取り組んだ読書でした。

本書の主題は日本の歴史を読み解き、その民族性を解明するところにあるんだけれども、

文芸批評家らしく、日本神話から国学の理解がベースになっています。

そこのところの予備知識が足りなかった僕は、例えば「延喜式」が出し抜けに登場したりすると

はたと立ち止まったりしたものでした。

筆者の基本的立場として、古代(特に大化の改新以前、さらに限定すると神話の時代)を

一種のユートピアと仮定して、そうした時代の「生活」を称揚し

そこに日本文化のエートスを見出します。

全編にわたって象徴的に扱われているのが日本の

「米作り」で、ここに日本の道徳がある、というのが保田の主張です。

簡潔にいうと、麦の文化、牧畜の文化、つまるところ狩猟民族=西洋の文化は

私的所有権が基礎になっていて、それが争いを内包する文化であるのに対し、

稲作の文化=東洋の文化からは、争いは生まれない、ということです。

籾を植え、育てれば必ず収穫が約束される信頼の文化。

そんなのが国の始まりの神話から描かれているんだから

こりゃもう間違いないね。と、続く神話の解説を読んで僕もなるほどと思っていたのでした。

狭義に「平和」というのが「戦争のない状態」であるのに対し、

日本は「平和」ではなかった、「太平」であった、

ということでこれは、そもそも戦争が生じなかったこと、というのは印象的だった部分です。

そうした米作りの生活こそが「道徳」なのであり、

美しかったと憧憬を込めて描くのですが、

僕もそこにはちょっと納得するところがありました。

大袈裟かもしれませんが営業とか、総務とかおよそ商いに携わってきた僕にとって、

「米一粒、釘一本も作ったことのない」ことは軽く疚しさみたいなものは感じていて、

特に営業をやっていた頃は、他人の作ったものをさも自分のモノのように

偉そうに喧伝する態度は浅ましいなあ。とたまに感じたものでした。

日本は「ものづくりの国」という呼び方が浸透して久しいですが、

やっぱり農業からあらゆる製造業に対する畏敬の念が文化として

共有されているんだと思います。

特に、米作りに関してはそれ自体が道徳であり、

勤労を苦役とする近代の見方を退けたうえで、

米作り自体が喜びだったという保田の論。

「かかし」は撃退ではなく占有の象徴、という民俗学の例がわかりやすかったのですが、

そもそも奪い合いを前提としない日本文化にとって、

契約を基本とする近代合理主義はなじまないということが再三主張されていました。

所有権を主張するようになったのは近代になってから。それまではそういう概念がなかった、と、

今じゃ当然というか当たり前すぎる前提である「所有権」がいかにも浅ましく述べられているので

僕も身につまされる思いだったのですが、米作りの文化からは

そういう発想は生まれないそうです。

少なくとも、僕は米作りを今からする甲斐性はないのですが、

自分の欲望を殊更に主張しそれを充たすことを目的とするような生き方、

すなわち近代的な生き方についてちょっと反省するとともに、

やっぱこの本に書いてある古代の人のように

損得勘定にあくせくせずに(というかもともと思考にない)みんなのために自分のできることを

せなあかんなあ。と幼稚な感想を抱いたのですがこれはこれで良かったと思います。

保田は共産主義を執拗に排撃しますが、

彼の主張を読むと原始共産制にも近いものを感じました。

(全然違う、と怒られそうですが)

僕は哲学専攻だった学生時代は社会契約論、とりわけカント以降の正義論に

関心を寄せていたのですが、そうした立場と真っ向から対立する

(というかそもそも同じ土俵に立とうともしない)保田與重郎の論は

かなり新鮮に感じられました。

これを送ってくれたA君に感謝して止みません。