RoseEnNoir午前零時

ギタリストRose En Noirの日常身辺雑記

「仲間」って何ですか?

会社の新人研修を受けてきました。

6年前に受けたやつと全く同じやつで、

同じ会社の新人研修を2回受けるというのも全国に稀有な例かも

しれないな……と変に思いながらひさかたぶりの研修センターへ。

隣の人は文字通りの総合職の新卒で、

「オレ6年間総合職やってたんですよ」と自慢したくなる気持ちを

ぐっと押さえながら偉い人たちの眠たい講義を拝聴。

会社に手つかずの書類が山ほど残っているのに……!

ラストは、学校の先生を10年やっているという「先輩」のお話で、

これは。と思ってむくっと起きたんだけれども、途中でペナントレースのことが

頭に浮かんでそのことばっかり考えてしまいました。

というのも、その先生の話に度々登場する

「仲間」とか「集団」とか「つながり」なんていうキーワードに

妙に引っかかってしまったからです。

年度初めなもので、その先生は始業式前後に起こったあれこれを

話してくださったのですが、

たとえば、子どもたちに向けての最初の話が、

「自分も子どもの頃は悪かったんよ」

こんな話をすることで、子どもたちが「学校の先生」に抱いている

通俗的な「人格者」チックなイメージを払拭して自己開示する……

と、意図は何となくわかるのですが、

自分なら、しません。

「仲間づくり」「集団づくり」なんていうキーワードに鼻白んでしまったのは、

先生の言う「仲間」とか「集団」というもののイメージが

よくわからない、或いは賛同しかねるからです。

私は小学生の頃、「みんな遊び」というものが本当に嫌いでした。

子どもが自由に過ごしていいはずの休み時間が

一部児童による「遊び係」とかの(一応学級会の議決を経ているものの)

勝手な決め事によって、自分のしたいこと(図書室で本を読むとか)が

できなくなることが、嫌でしょうがありませんでした。

自分も教壇に立っていたことがありますが、少なくとも

自分から「みんな遊びをしよう」と言ったことは一度もありません。

恐らく傍目には、休み時間「みんなで」ワイワイやっている学級はきっと、

「集団づくり」ができていて、てんでばらばらな事をしている学級は

「まとまっていない」と見えるのでしょう。

さらに言うと、大抵「遊び係」はクラスのなかでも影響力のある児童が

就任するものであり(そうでないと休み時間に他の子どもを支配し得ない)、

そうした子がしたい遊びにクラス全員を従わせる…という構図が

往々にしてできるのであり、

そうした「遊び係」的な児童が「まとめ役」として担任の評価を得ていることが、

幼いなりに釈然としないものがありました。

話の途中でパ・リーグのことに思考が飛んでしまったのは、

先生の話のなかに上のようなニオイを感じてしまったからです。

人はただ集まっただけでは「集団」になれない

(たとえば、電車に乗り合わせているだけの人たちは「集団」ではない)

というのはわかるし、

理念も何も共有しない、ただ校区が一緒だったというだけの烏合の衆が

一年間、同じ教室で過ごすには何らかの意図的な試みがなされて然るべき、

とは思います。

ただ、先生がそうした「集団づくり」への意図的な試みをなすときの、

根拠づけ、趣意説明のようなものが欲しかった。

もちろん、私も教壇に立っていたときはそれなりに「集団づくり」を

したつもりですが、

昨日の先生の云う「集団」とはイメージを異にするものだったと思います。