『K2』6巻 真船一雄著
シリアスな問題提起にいつも考えさせられる
医療ハードボイルドマンガ(という形容が正しいのだろうか?)
『K2』の新刊が出てたので購入しました。
『K2』シリーズの大きなテーマが「臓器移植」なんですが、
臓器移植法案成立までの世の中を賑わした議論があった頃に比べると、
いまはそれほどホットなテーマでもないような気もします。
なんか過去のものみたいというか。
10年ほど前に運転免許を取得したとき、運転免許センターで
黄色い「ドナーカード(臓器提供意思表示カード)」を初めて目にしたんですが、
多少ショックだったのを憶えています。
確かカードのウラ面に「提供してもいい臓器に○をしてください」みたいな
ことが書いてあって、なんていうかその生々しさというか。
「私は、臓器を提供しません」なんて項目もあって、
「おいおいそんなのをわざわざカードに記入する人がいるのか?」とか
「肝臓は提供OKだけど腎臓はダメなんて中途半端な人がいるのかなあ?」
なんて、大変失礼なことを考えながら眺めていたのですが、
これに躊躇なく記入するためには、実はとても大きな問題を乗り越えなければ
ならないような気がします。
ところで、臓器移植は脳死の人からしか臓器を提供できないとばかり
思ってたんですが、眼球なんかは心臓死―いわゆるふつうの「死」―なんかでも
提供が可能みたいです。
今回の『K2』では、ドナーカードを所持していた男性が脳死状態になり、
親も臓器提供に一度は承諾するものの、手術の直前になってやっぱり、
「これ以上息子の身体を切り刻まれるのに耐えられない」と父親が翻意し、
移植が頓挫してしまうというエピソードがありました。
脳死状態の息子を見て「ほら」顔色もいいし、手も温かい……だから生きている、
と言う母親の一コマが印象的だったのですが、
蓋し脳死というのはそれほど死を実感として伴いにくいものなのでしょう。
自分としては、「これ以上息子の身体を切り刻まれるのに耐えられない」という
父親の謂よりも、脳死を死として受け容れられない母親の哀願の方が
共感を抱きました。
作中では日本人の死生観ということにちょこっと触れられていましたが、
霊肉一致を旨とするキリスト教的死生観はともかく、
火葬をすんなり受け容れる日本人も案外、唯物論チックで死者からの
臓器提供を受け容れる下地があるような気がしましたが…
本人がドナーカードに記入することはそれほど難しいことではないとは
思うのですが、家族や周囲の者が書くドナーカードというのがもしあれば、
それは非常に書くのを躊躇うカードに違いありません。