http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20070124
平野啓一郎さんの短編集『あなたが、いなかった、あなた』が
もうすぐ刊行されます。ここ何年かはしばしば文芸誌などに
短編を寄せられていましたが、それがひとまとめになって
うれしいな。前回の短編集『滴り落ちる時計たちの波紋』も
非常に刺激的な作品でした。今回も楽しみです。
で、『あなたが、いなかった、あなた』という今回のタイトル、
不思議だなあ…と思っていたんですが、タイミングよく
ブログで解説されていました。漢字で書くと、
『貴方が、いなかった、彼方/貴方』ということなんだとか。
エントリでその理由が述べられています。
比較的、ご本人自ら自作解題などを積極的にされる方なので、
誤読の多い私にとってはありがたいかぎりです。
その前のエントリからの続きで、
「巧みに生きるか、善く生きるか」という話題にも触れられています。
私も『ウェブ人間論』を読んだとき、梅田氏の述べられている
「サバイブする」という言葉がいかにも功利主義的に聞こえたのですが
(悪い印象ではなく)、それが現代を「巧みに生きる」ことだとしたら、
「善く生きる」ことは果たしてどのような生き方かなあ、などと考えたりも
しました。
この二つは、決して共存できないものでもないんちゃうかな、と
考えていたら、平野氏も「確かに常に二項対立的という訳ではないと
思いますし」と述べられていて、…でも、それらが先鋭的に対立する場面は
やっぱり起こり得ると。
学校教育を例にして考えてみたりもしたんですが、ここ5年あまりの
キーワードであった「生きる力」というのは、どちらかというと
「巧みに生きる」ことを主眼に置いているように思います。
「総合的な学習の時間」では、例えば「環境」や、「国際理解」、「福祉」
あるいは「情報」といったことが扱われることが多いようですが、
これらは、世の中をいわゆる「サバイブする」ためのスキルです。
誰の目にも重要性が明らかなこれらの現代的課題に対応するために
たぶん「総合的な学習の時間」は生まれたんだと思いますが、
それ(=「巧みに生きる」こと)に充てられた時間が週あたり3時間あるのに
対し、恐らく「善く生きる」ことを教える場であろう「道徳」は週あたり1時間です。
そこなんかに、「善く生きる」ことを教えることの難しさみたいなものを感じます。
「善く生きる」前に、先ず巧みであらねばならない現代人?
古典的な問題とはいえ、現代においてますます先鋭化してくる類のものかも
しれません。