しばらくぶりに平野啓一郎さんのブログ更新。
http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20061108/1162923482
ドナルド・キーン氏との対談のことが書かれています。
キーン氏の日本語体験の根源として、『源氏物語』と『死んだ日本兵の日記』があり、
「一つは、歴史的、文化的精髄としての洗練を極めた言葉であり、もう一つは、
名もない一個人が、限界状況の中で己の実存を賭して書き綴った言葉です」……と。
「極論すれば、作家の言葉だって、その両方の間の振幅でしかないでしょう」……と
述べられています。
話は逸れますが、先日会社の研修で「感情語を獲得する」ためのワーク、というのを
勉強しました。「いまから20秒以内に、できるだけ多くの感情語を書いてください」という
指示で私もペンを走らせたのですが、思いの外浮かばず、10個程度記すに止まりました
(20個以上書いた強者もいたようです)。
人間は発達に従い多くの感情が分化していくというのを大学の授業で習いましたが、
最初は「快・不快」からスタートした記憶しています。
赤ちゃんの、純粋で明確な意志を有する実存がそこにあるんだなあ……
それが、幼児期→思春期と、多くの感情を獲得していくんですね。
最近「いじめ」とその関連の自殺のニュースが立て続けに流れ、悲しい思いを
したものですが、そうした遺書に遺される言葉は殆ど、ただただ「疲れた」と
疲労感に充ち満ちた文言でいっぱいです。死に際して、修辞も何もあったものでは
ないかも知れませんが、全ての感情を削ぎ落として残ったものがそれ、とは
なんとも空しい話です。
死に往く自己を客観視し受け入れた人の遺した言葉の豊饒さと、そうでなかった人。
TVを観ながらそんなことを考えたりもしました。