「国民の生活が第一」という名前の政党が
かつてあって(今もあるのだろうか?)、
支持するしないはともかく
ネーミングに一石を投じた党であることは評価できる。
政党の命名には「○○党」や「新党○○」のように
必ず「党」を含める。というルールがこれで崩れたからである。
加えて、抽象的な理念・概念を冠する政党が多い中にあって
えらく具体的というか、身も蓋もなく現実主義にシフトした命名なのも
異彩を放っている。
・・・という過去の政党を思い出したのは、
最近の僕とかが結局「生活が第一」な生活を送っているからで
こないだ。
妻がまた工場を転勤することになって
その先は出荷量も少なく次の閉鎖対象と目されているような
場末の工場。
今いるところもそれほど出荷高はなく、
あまり重要でない工場ではある。
無論出荷量の多いとこほど重要なセクションであり、忙しいのであって
今回の転勤はその逆、つまり楽なとこに行けるわけで
生活的には良い。なので僕も喜んでいる。
しかしながら生活以外の点について考えてみると、
出荷量が多かったり新規ラインを増設したような重要な工場には
優秀と目されるスタッフが配置されるのであり、
妻はつまりそうでないということである。
生活はもちろん重要だが、
そこには高邁な理想とか、崇高な精神とかはあまり
含意されないのであって、
できれば楽な(=重要でない)支店に転勤したいと思っている
僕とかも上記の理想とかとは無縁な生活を送っているのである。
それで良いのだろうか。というのが
ここ最近の疑問で、
豚児豚二の世話に忙しくて尚且つ貧乏。といった生活に追われて
高邁な理想や崇高な精神はどこに行ってしまったのだろう。という
問題である。
高邁な理想を単純に言い換えれば
「夢」だ。
別に、大臣になりたい。とかでなく
ネズミーランドに行きたい。といった中長期的な目標でも
良いと思うけれども、
日々の生活に何か希望を付加する夢みたいなのが
欲しいなあ。と思った。
で、それを家族に与えるのが僕の役割なんだけれども
僕自身がこの体たらくなので困ったものだ。
・・・というのを、昨日同僚が結婚(それも同じ職場の人と)するという
めでたい発表に触れて、考えたことである。
今現在夢に溢れている同僚夫婦の傍ら、僕とかは
未だに生活に汲々としている段階であって早くそこ(底)から
抜け出したい一心である。
午前は豚児は歯医者さんへ。
僕は豚二をマクドナルドに連れて行った。洗濯機はまだおかしい。