RoseEnNoir午前零時

ギタリストRose En Noirの日常身辺雑記

不可分な自分としての名前

M社が身売り。ていう報道があって、

無論これは「身売りするかも」っていう推測の記事で

実際に株式を売却したわけではないんだけれども、

そういう懸念が出ることすら少し前までは考えられなかった

超売れ売れ企業だっただけに隔日の感があるというか

なんとも驚きである。

原因としては、グリーやディーエヌエーといったゲームの台頭、

フェイスブックの普及なんかが挙げられている。

僕はM社のソーシャルネットワーキングをよく情報収集源にして

いろいろ便利に使っているのだが、

やっぱり「匿名」というのは自由が担保されていてよい。

これは、社会での実際の役割に拘束されないという点においてである。

日本では、

「発言にブレがない」とか

「姿勢が一貫している」とかいうことが

どうも過剰に評価されすぎている気がする。

本当それが一番大事なことだろうか?

例えば、現実においては

会社では

「部下に厳しく指導する鬼の課長高島田金太」が、

プライベートでは

「反抗期の娘を持て余す中年のおやじきんた」で

あったりすることがまあ、少なくない。

恐らくこれを一貫主義者は否定、

「会社でも家でも鬼の課長」もしくは

「家でも会社でも中年のおやじ」であることを要求し、

態度にブレがないことを称揚するのである。

これを求められると結構きつい。

自分だって会社の自分と家での自分とは恐らく

微妙に違うし、同一性を要求されたら

無理です。と言って断るだろう。

しかしながら、フェイスブックに要求される

「実名」というのは一人の人間に固有なもの、

不可分なものであり、その人の同一性を代表するものである。

だから、フェイスブックに登録した先の高島田課長が

コーチングにおいて最も必要なものはエビデンスであろう」

といった管理職的リーダーシップ論を論じた後に

「まだ娘が帰宅しない。なんと言って叱ったらいいだろう」

といった中年おやじ的弱音を吐くと、

どうしても違和感が生じてしまう。

また、会社の同僚や高校生の娘がそれぞれ

金太のページを見たらいずれも理解に苦しむのではないだろうか。

しかし、どちらも高島田さんの紛れもない思考であり、

また標準的な日本人がもつであろう振れ幅であり、

これをもって「多重人格だ」などと批判するのは極端すぎる。

なので高島田さんがフェイスブックに登録するには予め

「課長」か「中年おやじ」のどちらかの人格に統一される必要があり、

選択されなかった方の思考は排除されねばならないのである。

実に淋しいことではないだろうか?

これが匿名性がウリのソーシャルネットワーキングの場合、

好きな名前をつけて、社会的身分に拘束されない

自由な発言が可能になるのである。

なのでM社にももう少しがんばってほしい。