少し過ぎたけど9月11日を迎えると、テロの話題とかが
テレビでも流れたりしてつい意識しちゃうね。
21世紀は戦争の「非対称性」ていうのが言われたんだけれども、
これはまあ、赤組と白組が並んではい、スタート。という争いではなくて
かたや空爆、かたや自爆テロ、というような感じが非対称。と論じられます。
それに加えて僕は、戦争の歴史を鑑みるに
領土の取り合い→イデオロギーの対立という時点まではまだ、
お互いに共通前提というか、何が原因で戦っているかが見えたんだけれども、
近年の、それこそ21世紀の戦争というのは、
お互いに何を考えているか分からない、あるいは考えていることが理解できない、
そんなところにも非対称性を感じるのです。
サインをしてもらった川上未映子『ヘヴン』は、戦争の話ではなく、
中学校でのイジメを中心にプロットが進んでいく話ですが、
僕はぼんやり上のようなことを考えていました。
しかし、素晴らしい作品なのに、
帯の
「驚愕と衝撃!圧倒的感動!」
という
どうしようもない陳腐なコピーはなんとかならんものだろうか。
帯の文言まで作者は考えないはずだし、
講談社の人はここをもうすこし頑張ってほしかったね。
その帯に、
「善悪の根源を問う、著者初の長編小説」とあるように、
善悪の相対化された世界、みたいなのが
ここで提示されている世界観。
後半、いじめられっ子の主人公「僕」と、
いじめる方の「百瀬」との議論は読み応えがありますが、
思わず百瀬の嘯く突飛な理論にも頷いてしまうような、
そんなヘンな説得力があるのはやっぱりいまがこういう時代だから。
百瀬はやたら善悪を個々人に還元して、
いろんな関係性(ここではイジメ)を偶然の産物にしたがります。
被害を受けている主人公は、受けている数々の暴力を
そんな無意味なものだと指摘されて当たり前ですが当惑、反論。
「自分がされてイヤなことはするな」という道徳律は、
善悪の問題ではなく「区切り」という百瀬の用いた表現はさすがだと思ったのですが、
人はいろいろな矛盾を抱えているもので、他人とかろうじて共有できる利害の部分にのみ
こうした道徳律は適用されているだけ。ないからわざわざつくる。捏造だ。
みたいなシニカルな見方は確かに「驚愕と衝撃」でした。
みんながぼんやりと、普遍的な価値観を共有して(いるように見えて)いた時代が
終焉。前にも書きましたが、ネットも発達して個々それぞれの考えていることが
全然違うこと、というのがますます浮き彫りになっていく時代。
百瀬、そして同じくイジメられっ子の「コジマ」は、この作品のなかで
あたかもテロのように理解の範疇を超えた存在として問題を投げかけます。
果たして、ここまで先鋭化された論理が目の前に現れたとき、
いまみんなが暮らしている世界はどう対抗するんだろう。
相対化されつつある善悪の彼岸に、どういう価値が共有できるのか
僕は作者の次回作でそれを描いてほしいと思うのです。