RoseEnNoir午前零時

ギタリストRose En Noirの日常身辺雑記

ドストエフスキーと現代の殺人 亀山郁夫×平野啓一郎

中央公論』7月号に、

ドストエフスキーの新訳で有名な亀山郁夫氏と、平野啓一郎さんが

ドストエフスキーと現代の殺人」というテーマで対談されてました。

あの秋葉原の無差別殺人事件からほぼ一年が経ちますが、

平野氏はその事件を取り上げて「疎外感」というのが大きなテーマだと

述べられていました。

被告は「社会から疎外されている」みたいなことを犯行動機の一つとして

感じていたようですが、「非モテ」、異性にモテないということの強調性から

平野氏は

「愛されるかどうかという二者択一には、最後の最後に、ひとかけらの

 神秘が残されている」

ということを言われ、

「自分から見れば、どう考えても愚劣としか思えない男のほうを、好きな女の子が

愛してしまうということは当然あるわけです」

とたとえ話をされていました。

こうした言及は前にテレビの番組中にもあって、僕はこれに深く共感したのですが、

恋愛の不合理性というのはたしかに社会の不合理性を象徴する最も端的なものだと思いました。

この対談のなかで、僕が確かに。と納得したのが

「悪という問題は、神秘化してしまうことが一番よくないんじゃないかと思うんです」

という平野氏の意見でした。

「悪のわからないところを神秘化して」しまうのは文学者だけでなく僕ら庶民のなかにも

たぶん往々にしてあって、

この前、僕らの知り合いが無賃乗車というくだらない犯罪を犯しあえなく御用となったのですが、

運の悪いことに彼の勤務する会社が報道でバレてしまい、その会社の人が

えらく迷惑を蒙った。ということがありました。

その会社の人がぼそっ。と、

「例えばよお、殺人とかだったら分かるけどよお、キセルとか(くだらない犯罪)で捕まるの

ヤメてほしいわ」

と、およそ慎みを知らない発言をしたのを覚えていますが、

確かに、無賃乗車といった「くだらない犯罪」の類は

「せいぜい魔が差したんだろう」ぐらいの範疇で僕らは処理します。

でも、無差別殺人とかになるともう僕らの理解を遙かに超えて、

そこにはある種の神秘性みたいなものを持ち出して片付けたくなってしまいます。

それじゃあかん。ということで

社会学であり、精神医学が即物的なアプローチを試みたんですね。

平野氏は『決壊』で、文学から殺人という主題に迫り、

そしてこれからの創作活動でもさらに追究されていくんだろうと

僕は期待しています。

http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20090618

http://d.hatena.ne.jp/keiichirohirano/20090618/1245257551