RoseEnNoir午前零時

ギタリストRose En Noirの日常身辺雑記

認知のバイアス

「いっやー丸石くん、ひさしぶりだねー」

「やっぱー丸石がいないとねー」

と大歓迎を受けて会議室に15分遅れで現れたのは

3ヶ月ぶりにふらっとやってきた庶務課の丸石さんである。

この会議がまた実につまらない会議で、

だけど僕はスケジュールをやりくり、

バスの時刻表と睨めっこして毎回

息せき切らして出席しているのである。

ところで僕はこの会議に毎回出席しているけれども

丸石さんのような賞賛は一度も浴びたことがない。

僅か3ヶ月に1回の登場で拍手喝采を浴びるのならば、

無遅刻無欠席の僕には後光が射し、

海が割れるほどの奇蹟が起こり、

周囲があまりの畏れ多さに身動きすら出来ないほどの

感動を与えているはずである。本来は。

しかしそうならないのは何故だろう?

似たようなケースは実は人類の歴史上古くからあるのであって、

例えば僕が開校以来の優等生であった小学生時代、

どこにでもいるものだが掃除を全くしない悪ガキがいて、

でもごく稀にだが掃除道具を持って掃除をする瞬間があった。

その瞬間を目撃するや先生は涙も溢れんばかりの賞賛を送ったのであった。

一方、日々僕は掃除をサボるどころかむしろかなり丁寧にしていたのであったが

先生に取り立てて絶賛された覚えはない。「お。やってるか」程度である。

それどころか、ただ一度だけ掃除場所を間違えたことがあったその日、

僕は「猿野郎」と23回罵倒された挙げ句にクラス全員に詫びて回るという

カノッサの屈辱に続く世界史の事件を残したのであった。

幼い僕はこれらの仕打ちに傷つきもしたし大人不信にもなったけれども

30年を経て漸く僕はこの不条理の謎を解いたのである。

実に簡単なことだが、

人間の認知というのは簡単にバイアスがかかるものである。

横断歩道を歩くお年寄りの手を引いてあげている。

という行為だけ見ることが出来ればいいのだが、

善良な青年がしているならば特に気にも留めないものを、

不良な青年がしているならば驚嘆、絶賛。

同じ行為を全く別物に認知してしまうのである。

僕が遭遇した先生も、人間的には全く素直なのであった。

ちなみに小学校に絶対評価が導入されたのは

ほんの8年前の話である。僕は時代を先取りすぎていた。

じゃあいまは絶対的基準に則って厳正に種々の評価が

なされているかというと必ずしもそうではないことは

近所の小学校に行ってみれば分かるだろう。

僕はこの、

「人間の認知は歪む。絶対評価は不可能」という

テーゼを理解したその次の日からすぐさま実践に移した。

急がねばならない。

畜生ローソンの駐車場に屯っている若者達は

僕が30年かかって辿り着いた真理に既に気づいていたとは。

当然会議の出席ペースは「3ヶ月に1回」に落としたし、

書類の〆切とかも意図的に守らないようにした

(10回に1回くらいの割合で守った)。

髪を逆立て金髪にして席を譲った。

金のジャージ上下で上司に敬語を使った。

…これで、僕が行った善行は認知のバイアスにより

何倍も増幅されることになり、

僕も丸石さんの如く

拍手喝采を浴びるヒーローになるだろう。

そう期待して笑いが止まらなかったあるボーナス支給月、

僕は

「査定 C」

の添え書きと共に

90%減給になった期末勤勉手当支給明細を受け取った。